朝靄とネクタイ

自己顕示欲と僻みのミックスジュースブログ

何をしたいのかということ

 ふいに、ハマっている物とか、何がしたいのとか聞かれることがあって、僕はそれを、適当な嘘と本音を織り交ぜて話を逸らす程度の処世術は持っているから何とかなっている。本当は何もそういうのなんて無いんですよ、はは。という切り札は、俺に近づくなってATフィールドなんだって。

 確かに今は伊藤計劃の著作を読み漁ることにのめり込んでいるし、創作活動も好きで続けているが、まあ、それが会話に繋がるかどうか、だと思う。同世代の人はデビューしたり神絵師だったりする訳で、本も刷ったことのないトーシロが趣味の話をしたところで、即座にふーんという感嘆にも満たない吐息で終わるのが目に見えている。伊藤計劃は確かにゼロ年代、またSF界において非常に大きな役割を果たす存在である。だが、住野よる百田尚樹を読んでいる人々には伝わらない。知らない、誰と返されて終わりなのだ。

 それじゃあ、趣味の合う人と付き合えばと思うかもしれないが、それは違う。居心地の良さと趣味の合致は必ずしも一緒くたに語られるべきではない。年齢、性別、職業、生活リズム、そういう社会的要素の方が寧ろ、付き合うには重要な部分だ。趣味が合うだけで何とかできる人間関係を築けるほど、僕は本気の趣味が無いからだ。

 アジカンが大好きで、伊藤計劃を読み漁り、創作活動が趣味のA子ちゃんが居たとして、コイツとは碌な奴じゃない。メンヘラだ。19歳で関西の有名私大に通っていようものなら、彼女は絶対に友達がいない。CDショップか風俗で金稼いでる。『響』の平手友梨奈みたいな風貌をしている筈だ。

 まあ何が言いたいかというと、趣味が合わないからこそ、趣味に関して話せないからこそ、実は自分の趣味が、大したことのないものだと感じるのだ。人の話題に合わせる程度の知識を得ているだけだったのだ、ということに気づいた時、僕はこの焦燥感の行方が知りたくなった。もう少し、観察してみようと思う。

 昔バイトしててクビになった所の同僚はバンドをやっていて、その曲をたまに聴く。今日も聴いた。何が「未来の先には光がある」だよ。フリーターで限界バンドマンだったでしょうが。でも、本気でこれがしたいからこそ、こういう歌詞が出るんだろうな。実際、これしかなくなったって状況でも、同じ曲が出来上がってたんじゃないだろうか。そういう気がする。