朝靄とネクタイ

自己顕示欲と僻みのミックスジュースブログ

robotという生き方

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 人は何かしらのロボットであると思う。脳は電気信号を用いて記憶や思考、タイピングや言語認識を行っているからだ。

 赤信号で止まるのは、法律という条件式を脳に組み込まれているからで、false処理で罰を受けることになる。罰は社会的に恥辱と拘束を与えるツールで、罪悪感という脳の処理機能は、社会規範と法律、罰というデータを変数emotionに代入し、変数の結果次第で感情オブジェクトに異なる処理をするよう条件式を組み込んでいるに過ぎない。幸福も羨望も喜怒哀楽も全てそうだ。科学が追い付いていないだけで、仕組みは誰にだって分かるものである。

 「分からなければGoogleで調べる」という思考回路は、現代人であれば誰しもが埋め込まれているプログラムだ。知識が無ければ検索性能を上げられない、とは言うが、ソフトウェアのアップデート方法が不明なら、それを調べればいいじゃないか。そのプログラムが存在している限り、知識の海から上がることはできない。

 知識は知恵としてプログラムされ、知恵を元にして新しく知識を得る。漢字を学び、熟語の意味を知るように、感情も、グレードアップするには一定の知識が必要なのだ。自転車を買ってもらった小学生が世界のどこにでも行けるような気になったとしても、自動車免許を取れば、自転車の不便さを知ることになる。そんなこと位人なら誰でも分かるのは、自転車よりも車、車よりも飛行機が速く、遠くに行けることを知っているからだ。井の中の蛙が大海を知らないことを知っているのは、紛れもない第三者であり、Googleで検索すれば満足という人を軽蔑できるのは、検索エンジンの限界を知る人だけなのだ。恐ろしいことに、Googleはいくら調べても、彼(または彼女)自身の限界を教えてくれることはない。

 僕は、その充足感に横槍を入れて奪うという勇気は持っていない。彼自身が幸せならそれでいいじゃないか、と思う。不登校を批判できるのは、今学校に通う子供たちではなく、学校を卒業した後の選択肢を持つ大人達だけである。Googleが呼び出した答えを理解することや、その答えが真実か見分けることや、基礎知識を増やして検索性能を上げることを、どうして僕が彼に説法できるだろうか。検索して答えを得ることに満足している10歳の少年に対して、どうしてその充足感が虚構だと教えることができるだろうか。その幸福に疑いを持っていないなら、十分ではないか。まるで彼は未熟だ、機械便りの馬鹿だ、ロボットだ、と批判することは彼にとっての幸福なのか。正義という名の暴力を与え、満足しているだけではないのか。そのことに疑いを持たない限りは、少年とプログラムの量が多少違うだけにしか、僕は見えない。

 疑う、というプログラムは本質的に否定の2文字を伴う。計算結果を疑い確かめるのは、間違いを否定する為であり、現状の幸福に疑いを持つことは、新たな幸福の拡充を名目に、現状維持の否定をしている。食べてしまえば無くなる好物の様に、その幸福も無くなるのではないかと疑うのだ。幸い、幸福なんてのは何処にでも転がっていて隣人性を伴うものだから疑いだけの時間が長く続くわけではない。だが実際、疑おうと思えば無限に疑える。検索エンジンを動かすサーバーの構造、サーバーを動かす1コンピュータの価格、コンピュータ内の半導体の原産地、その分子構造、疑うことと好奇心は表裏一体だが、知識を得るだけでは不安を伴う。だから、それを知恵としてプログラムすることによって、満足を得ている。このリターンが無い以上、調べることは、恐らくあり得ない。1足す1が2であることは知らなくても、2であることに満足する為に人は学ぶ。無限に疑い続けることが無いように、予防線を張っているだけに過ぎない。

 だから、人はその予防線を様々な知識に張り巡らせて、無限に疑うことが無いようにしている。バットの振り方を1センチ単位で直すスラッガーも、その筋肉の動きを学ぶことは無いし、スマホでツイートする我々も、そのサーバーがどこにあるのか学ぼうとしない。自分が望む情報を、望むように取捨選択しているだけに過ぎない。その予防線が多少近いか遠いかだけなのである。

 だから彼は批判できない。

 だから彼をロボットと罵ることはできない。ロボットではないことを証明できる者がいない限り、僕らもロボットである可能性を捨てきれないからだ。現に、ロボットと然程変わらない思考回路をしている僕らは、それを疑う自我を認めることでしか、人間の証明ができない。しかし、疑うことすらプログラムされていることだとしたら、いったい誰が、僕を人間と証明してくれるだろうか。

 それなら、確かな満足を得る方がよいのではないか。知らなかった方がよかったと言わないように、知らないまま幸せに浸かっている方が楽なはずだ。そこに高次も低次も存在しない。死ぬまでネバーランドで十分じゃないか。僕はそのことを安直に批判することで満足するプログラムには疑いを持っているから、全く満足していないのだ。ならば、ロボットで十分ではないのか。どうしてロボットが不幸せであると決めつけ、機械的な幸せがあると疑わないのか。全てに疑問を持つ以上、真理と無知の間をぐるぐると回り続ける僕は、ロボットであるのだろうか。そういう真理に辿り着いたなら、僕は満足し、喜んでロボットになるに違いない。