朝靄とネクタイ

自己顕示欲と僻みのミックスジュースブログ

今日も人は死に、人は生きる

 梅田で飛び降りがあって、考えることが少しあった。

 インターネットの普及により、死に隣人性が伴ったと思った。身近にの何処の誰かとも分からない人が死ぬのは、よくある光景だが、実感できるほど人が社会性を獲得できていなかったのかもしれない。単にtwitterに出回っている動画を見るだけでも、死というものを最大限感じさせるには良い材料であったことには間違いない。インターネットの海に少しでも浸かっていれば、押し寄せる波のように、そこに立っているだけで、死という当たり前の事実が目に入ってくる。

 撮影している人に対しての批判は、まるで飛び降りを助長しているかのようなものだった。確かに彼らはモラルに欠けた行動をしたのかもしれない。だがそれは不謹慎だとは思わない。彼らの承認欲求がそうさせた(かもしれない)とはいえ、道徳を盾に囲い込みを行う人達をほんの少しも擁護できない。死と向き合ってないからだ。誰かが死んだというのに、その死に対して無理解なまま人の批判をして満足とは、社会的規範に対する承認欲求を満たしているにしか過ぎないからだ。

 死とは理解しえないものだ。生もまたそうだ。死の実感は、否が応でもそれに向き合わせ、考えさせてくれる。批判する人たちは、自分の意識を大義名分に向け、死という本質を考えようともしない。一通り批判という名の罵倒が終われば、何事も無かったかのように今日を、いや昨日を繰り返す。

 隣人性のある死だからこそ、その死に対して、そして自らの生に対して考える必要があるのではないか。もしあの場に居たら、今まさに飛び降りようとしている人を助けようとしたのか、撮影を止めるよう喚起できたのか、日常の一部として関わらなかったのか、その死に惹かれ撮影や野次馬となったのか。終わってから批判するのでは遅いのだ。あの瞬間に、自分ならどうだったのか、追体験できるツールとして、あの動画の存在意義はあるのではないか。

 その瞬間、何と言って撮影する彼らを止められただろうか。少なくとも死に惹かれている彼らを、止めることなんてできたのだろうか。

 「バズる」という考えの下SNSに投下された飛び降りという爆弾は、承認欲求を満たすツールであった本人とは裏腹(思惑通り)に、それを批判することで承認欲求を満たそうとする人々を限りなく多く生んでしまった。

 「一人の人間が死んだ」というその本質については、誰も目を向けないまま、一人また一人と、今日も人は死に、人は生きる。